生駒山(パート1)

以前、大峯奥駈道について書きましたが、その地を修験道の修行場として開いた役行者(役小角)と、彼と関係の深い生駒山について書いてみたいと思います。ちなみに、生駒山は大阪人にとっては最も身近な山であり、大阪の東にあり、朝日は必ず生駒山から上ります。
大峯奥駈道については、過去のブログを参照してください。

大峯奥駈道(パート1)


幼かった頃はよく山上にある1929年(昭和4年)開園の生駒山上遊園地に遊びに行ったり、奈良県側の山腹の現世信仰で知られる宝山寺に、初詣のお寺としてよくお参りしました。宝山寺については後に詳しく語ることにします。ちなみに、大阪人は宝山寺とは呼ばず、「生駒の聖天さん」と呼んで親しんでいます。
生駒山が記録に現れるのは日本書紀における神武東征の一節であり、神日本磐余彦尊(神武天皇)と長髄彦が山麓において激戦を繰り広げたとされています。このあたりの記述を日本書紀の中に探してみると、

夏四月の丙申の朔甲辰に、皇師兵を勒へて、歩より龍田に趣く。而して其の路狭く嶮しくして、人並み行くこと得ず。乃ち還りて更に東膽駒山を踰えて、中州に入らむと欲す。時に長髄彦聞きて曰はく、「夫れ、天神の子等の来ます所以は、我が國を奪はむとならむ」といひて、則ち蓋に屬へる兵を起して、遮りて、孔舎衞坂にして、興に會ひ戦う。
(岩波書店 日本古典文學大系 日本書紀(上)P192)

ここに記された龍田や膽駒山が今の生駒山です。
私は判官贔屓というか、長髄彦に非常に興味を持っています。長髄彦は、「古事記」では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)、登美毘古(トミビコ)とも表記され、神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物です。登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で河内国の河上の哮ヶ峯に降臨させ、その後大和国の鳥見の白庭山に移った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになります。神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衙坂(くさかのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡しています。その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになり、このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなったと記述されています。

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