王仁

大阪府枚方市に王仁公園という公園があり、その公園のプールは小学生のころ、夏休みによく泳ぎに行きました。最寄り駅はJR西日本(当時は国鉄)の片町線(学研都市線)の藤阪駅ですが、藤阪駅の開業が1979年なので、当時はまだなく、長尾駅か津田駅から歩いて行ったように思います。また、藤阪駅は、長尾駅~四條畷駅間が複線化されるのに合わせて設置されたとありますが、まだ単線だったので、私が通っていたのはそれ以前の話です。

ところで、王仁公園の王仁という漢字ですが、読み方がわかりますでしょうか?これは、王仁(わに)と読み、人物名です。今回は、この王仁について書きたいと思います。
王仁は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたと記紀等に記述される伝承上の人物で、『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師と表記されています。
では、『日本書紀』の記述から見ていきましょう。

十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐、亦能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰「如勝汝博士、亦有耶。」對曰「有王仁者、是秀也。」時遣上毛野君祖荒田別・巫別於百濟、仍徵王仁也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。
十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。
(現代語訳)
十五年の秋八月六日に、百済王くだらおうは、阿直岐を遣わして良馬二匹を奉った。そのまま軽の坂上の厩で飼わせた。それを阿直岐に管理させて飼わせた。そこで、馬を飼っていたところを名づけて厩坂という。阿直岐はまた経典に精通していた。それで、皇太子菟道稚郎子は学問の師とされた。天皇は、阿直岐に尋ねて「あるいはお前に勝る博士が、他にいるか」とおっしゃると、(阿直岐は)答えて「王仁という者がおります。この人は優れた人です」と申し上げた。そこで上毛野君かみつけのきみの祖の荒田別あらたわけと巫別かんなきわけを百済に遣わして、王仁を呼び寄せなさった。その阿直岐は、阿直岐史の始祖である。
十六年の春二月に、王仁が来て、すぐに太子・菟道稚郎子が師とされ、多くの典籍を王仁に習われたが、何事にも通暁し不明とすることはなかった。いわゆる王仁は書首の始祖である。

大阪市鶴見区の花博記念公園鶴見緑地内に1990年に開催された国際花と緑の博覧会における、大阪市のパビリオンとして約5000枚のガラスが用いられ、水面に浮かぶ睡蓮をイメージして建設された「咲くやこの花館」という屋内植物園がありますが、この「咲くやこの花」は、下記の古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされる難波津の歌からとられています。

なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな


また、大阪府枚方市藤阪東町二丁目に王仁の墓が伝えられています。

古代都であった難波宮を舞台に東アジア諸国と日本の交流を再現するという設定で「四天王寺ワッソ」と呼ばれるパレードなどが行われています。パレードは朝鮮半島出身である武寧王や天日槍だけではなく鑑真など、時代も地域も越えた渡来人に扮する参加者が参加者たちが、朝鮮の伝統音楽にあわせて、現代韓国語の「ワッソ! ワッソ!」の掛け声とともに舟だんじりを曳き、巡行します。ここにいつも王仁が登場しています。パレードではこうした渡来人たちを、聖徳太子など古代日本人に扮した参加者がで出迎えるというもので、浜村淳・アンミカ・渋谷天外・青芝フックをはじめ関西の著名人たちが参加しています。

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