大阪学 お笑い編

大阪と言えばお笑いの街のような印象が強く、テレビを見ていると大阪のお笑い、大阪弁を話す芸人さんが日本中を席巻しているように思います。そうした大阪=お笑いのイメージはどういう風に形作られたのか見てみたいと思います。また、大阪のお笑いはどういうお笑いなのか考えてみたいと思います。
「大阪人が2人寄れば漫才になる」と言われますが、漫才のルーツは河内生まれの玉子屋円辰が、玉子を行商して歩くうちに覚えた河内音頭に江州音頭を加えて改良し、その間に軽口や掛け合いを挟んだものです。この軽口や掛け合いは、大阪人の普段の会話から発生したものです。1916年頃には、萬歳から万才という略字も使われるようになり、昔からあった軽口、掛け合い、仁輪加、女道楽などの大道芸を吸収して発展します。
一方で、興行の方では、吉本せいという希代の女興行師があらわれ、天満天神裏門前の第二文芸館を買い取った寄席の天満花月をはじめとして、寄席の本場の法善寺花月を手に入れるなど、事業を拡大し、やがて今の吉本興業を築き上げます。吉本興業の創業者吉本せいについては、2017年度下半期放送のNHK「連続テレビ小説」の『わろてんか』のモデルにもなったのでご存知の方もいらっしゃると思います。
道頓堀の弁天座で初めて万歳大会が開かれたのちの1930年にエンタツ・アチャコのしゃべくり漫才が出現し、漫才は近代化します。エンタツ・アチャコの有名な漫才は「早慶戦」で、当時の人々が最も熱狂したスポーツをネタにして大成功します。当時の寄席は落語が中心だったんですが、エンタツ・アチャコの漫才を1933年にNHK大阪放送局がラジオ中継して漫才が日本中に広がり、大阪弁が全国に通用するようになります。

戦後に再び漫才ブームが沸き起こったときは、NHK大阪放送局がラジオで「上方演芸会」を全国中継して人気番組となり、そこへ民放も相次ぎ開局してそれに火をつけました。その頃活躍していた漫才コンビとしては、蝶々・雄二、ダイマル・ラケット、ワカサ・ひろし、いとし・こいし、Aスケ・Bスケ、お浜・小浜、唄子・啓介、かしまし娘、やすし・きよしです。このうち、私が小さい時にテレビで見たことがあるのは、ダイマル・ラケット、いとし・こいし、かしまし娘、やすし・きよしあたりでしょうか。




よく、「東京落語に大阪漫才」と言われますが、落語と漫才の笑いには本質的な違いがあります。落語では、与太郎というちょっと頭の弱い人物を作って、そのしくじりを落語家が第三者の目でみたように語ります。演者も高度な話芸、客もる程度の知識がないと笑えません。これに対して漫才は、それを演じるものがアホになります。アホなことを言うだけでなく、どつかれたりもします。客は、作った人物の馬鹿さを笑うのではなく、漫才師そのものをアホだとして笑い、聞き手に優越感を与えて作り出す笑いです。これはいわば自分を貶めて相手を立てる大阪人の特徴がよく表れています。これはただお笑いという演芸の世界だけではなく、大阪人の日常会話にも言えることで、よくほかの地方の方が大阪人の会話を聞くと漫才や吉本新喜劇を聞いているように聞こえる理由の一つです。

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