インドへ行った理由

2001年5月某日。私は東京郊外の精神病院の一室で悶々としていました。入院生活はこれで2度目です。1度目は2000年の夏、大阪の病院でした。アルコール依存症の病状が悪化し、心配した母と会社の社長に連れられて横浜の病院に行ったのですが、その病院ではどうすることも出来ないと言われ、実家に連れ戻されて大阪にある精神病院のアルコール専門病棟に放り込まれたのです。入院中は仕事から解放されて心身共にリフレッシュしたものの、当時、まだ仕事ヘの呪縛に捕われていた私は周囲の反対を無視して、退院するとすぐに職場復帰しました。これがその後仇となりました。

大阪の病院を退院した後、上司の退職に伴う引継ぎを行ない、事実上、設計のセクションのトップに立った私は某デベロッパーから委託されていたマンション建設に伴う開発の許認可手続き(都市計画法32条および29条)をするかたわら、測量の手伝いで久米島空港のGPS観測の為に沖縄に出張しました。そして、それが終わるや東京湾岸部のRTK(リアルタイムキネマティック)の仕事と並行して、新に宅地開発の仕事をはじめたのです。形だけの部長はいましたが、雇われ部長は開発の許認可に関しては素人でした。部下も2人いたものの、新入社員同然の彼らは言われたことしか出来ません。ほとんどの仕事は自分一人でやっていたようなものです。仕事の重圧が私の肩に重く圧し掛かっていました。

かつてのように深夜の2時3時までの残業こそありませんが、本業の設計の他に人手不足のために頼まれた測量の手伝いを掛け持ちし、その上、3次元CADで建築の新規事業開拓の為のプレゼンテーション用パース(完成予想図)の作成や宅地造成のための区画割りのシミュレーション、下請に発注していた公共事業に伴う建物の移転補償の算定のチェックや公共下水道整備のための図面作りの仕事をするなど、めぐるしい日々を送っていました。そんな私を見かねて社長の奥さんは業務の進捗状況と今後の予定を決める会議のたびに、

「出来ない事ははっきり出来ないと言いなさい。一人で何もかもするのは無理よ。」

と、いつも言ってくれたのですが、頼まれた仕事を断れないのが私の性分のようです。ホイホイと仕事を受けてしまい、そのうち仕事の山で首を絞められることになってしまいました。宅地開発の仕事が一段落したとき、無理がたたってまたしても体調を崩し、ギブアップしてしまった。そして2度目の入院です。まさか再び病院に舞い戻ってくるとは全く予想もしていなかっただけに、病院のベッドの上で私は失意のどん底に陥っていました。

入院生活はリハビリのためのプログラムはあるものの、後は膨大な暇な時間との戦いです。今回の入院も長期戦になると予想していた私は入院に際してチベット関係の書籍を大量に病室に持ち込んでおり、それらを片っ端から読み漁っていました。また、読書と同時に数年前からはじめていたチベット語の勉強も改めて本格的に取り組もうと思い、「実践チベット仏教入門」(クンチョク・シタル、ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著)という本を持って病棟の図書室に立て篭もり、「観自在菩薩成就法」などのチベット語テクストをノートに書き写し、暗記していました。

そんな私の姿に興味を持ったのか、同じ病棟に入院していたSさんが話し掛けてきて、むかし奥さんと2年ほどインドを放浪した時の様子をしみじみと話してくれました

Sさんは会社でバケツ一杯吐血して毛布に包まれて瀕死の状態で病院に担ぎ込まれたのですが、病院側は死ぬ可能性のある患者を引き取るのを拒みました。その時の彼のγ―GTPは4090だったそうです。生きているのが不思議な状態です。仕方がなく、別の救急病院で24時間点滴を3ヶ月続け、ようやくγ―GTPが1000台に落ちてきたところで私が入院していた精神病院に転院してきました。生死の境をさ迷って帰ってきた人の言葉は重かったです。

Sさんが語るインド放浪の話を聞いたとき、初めは、

「ふむふむ。そんな人生もあるのか~~~」

「仕事を離れてインドを流離うことなんて夢のような話しだな~~~」

と感心していたが、そのうちだんだん自分もインドに行きたくなってきました。

インドといえばダラムサラです。私にとってのインドとは、デリーでもなく、カルカッタ(現コルカタ)やタージマハルのあるアグラでもなく、アジャンターやエローラの遺跡でもなく、ガンジス側沿いの聖地ヴァナラシでもなく、ヒマラヤの麓、インドの中の「リトル・ラサ」と呼ばれるダラムサラでした。そこはインドに亡命したダライラマ14世が居を構え、チベット亡命政府がおかれています。毎年、数千人のチベット人がダライラマに会いたい一心で厳冬期のヒマラヤを越え、ネパールを通ってインドのダラムサラにやってきます。数年来チベットに関心を持っていた私はいつかは行ってみたいと思っていましたが、なかなか実現できないでいました。東京のダライラマ事務所で簡単なボランティアをやっていましたが、かねてから出来れば本格的なチベット支援活動をやりたいとは思っていました。チベット本土にはその3年前に行ったものの、しがない観光旅行に過ぎません。具体的にチベット支援活動を行なおうと思えばやはり現地ダラムサラに行かなければなりません、当地でチベット難民の役に立つ仕事をやってみたい。そう思い始めると、頭の中はどうやってインドに行こうかということでいっぱいになりました。そんな時、頭を過ったのはダラムサラで活動しているルンタ・プロジェクトというNGOのボランティア募集の掲示板でした。たしかパソコンを教えてくれる人を募集していたはず・・・

2000年にアムネスティー・インターナショナルの「拷問禁止キャンペーン」の一環で行なわれた「チベットの拷問被害者は語る―チベットの真実」証言ツアーの手伝いをしようと思ってそのNGOの日本事務局のF女史にメールを送っていたことがあった。結局、1回目の入院騒ぎのために実現できなかったのですが、それがきっかけでそのNGOに入会し、自分に出来ることを模索していました。その当時はまさか実際に自分が現地に行くなどとは考えてもいなかったのですが、運命は私をインドに連れて行くことになります。

ダラムサラでボランティアをする為には休業という手もありましたが、私は会社を辞めました。就職するにあたっては大学時代の恩師にお世話になり、また、入社後も社長に気に入られ、何かと待遇のよかった会社なのですが、人間、しがらみを振り切る時も必要だと思ったら猪突猛進してしまう私です。治療プログラムの中の室内作業療法の時間にワープロで、ソーシャル・ワーカー内緒で退職願を書き、郵送で会社に送りました。

「この度は私事で会社に多大のご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。つきましては今後の私の進退につきまして考えるところがあり云々・・・」

そして、NGOのサイトの掲示板の再確認については担当の看護師さんに頼んで、無理を言ってルンタ・プロジェクトのURLを教え、無理を言ってプリントアウトしてもらいました。そこには、

「パソコンの得意な方

チベット難民へパソコン(ソフト or ハード)を教えてくれる人を必要としています。

また、ルンタ・ハウスでは、年間誌を作っています。どなたか手伝っていただけませんか。他にも、いくつかチベット語、英語で雑誌を作る計画があります。マックでもPCでもどちらでも構いません。

他にも、ダラムサラには、たくさんのプロジェクトがあります。CADの使える方、チベット人にCADの指導のできる方、お待ちしています。」

と書かれていました。

CADなら得意中の得意分野です。大学を卒業して就職してから8年間3次元CADで設計をやって来た実績があります。チベット語はまだ無理でしたが、英語で出来るらしく、行ったら行ったで、なんとかなるだろうという気楽な気持ちでインド行きを決めました。

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